日本の湖ベスト30大4位「風蓮湖(北海道)」





風蓮湖(北海道)


北海道東部・根室半島の付け根に位置する。面積59.01km2[1]は、日本の湖沼では13番目の面積規模を有する[2]。汽水湖としてはサロマ湖に次いで北海道第2位であるが、周囲96kmは汽水湖としては全道1位である。根室湾に直接面しており、湖面の標高は0m。西岸と南岸は標高 30〜40mの台地、北東岸は砂州からなる[3]。東隣には温根沼がある。

主な流入河川は風蓮川、別当賀川、ヤウシュベツ川。

湖名の由来は、アイヌ語の「フーレ・ペツ」(赤い川)。これは本来、流入河川の風蓮川を指した地名であり、川に湿原由来の赤く染まった水が流れ込んでいたことにちなむ。湖の方はただ「トー」(沼)と呼ばれていた。

湖の東岸、春国岱には根室市が設置した根室市春国岱原生野鳥公園ネイチャーセンターがあり、日本野鳥の会のレンジャーが常駐する他、周辺の自然に関する展示(常設)などがあこじめいこじめい

故事名言=猗頓(いとん)の富

遠鉄論に出ている言葉で、巨大な富のこと。大金持ちの

こと。

日本の湖ベスト30大3位「能取湖(北海道)」




能取湖(北海道)

北海道の東北部に位置し、オホーツク海に通じる海跡湖である。日本の湖沼では14番目の面積規模を有する[4]。以前は海水流入部の湖口が季節的に開閉しており汽水湖であったが、1973年(昭和48年)に護岸工事が行われて湖口が固定され、現在は完全な海水の湖となっている。

湖畔にはアッケシソウ(サンゴ草)の群生地があり、毎年9月頃になると一面が赤色で埋め尽くされる。卯原内地区には日本最大とされるアッケシソウの群落があり、毎年9月にはサンゴソウ祭りが行われる。湖岸をなぞるようにアマモが繁茂しており、日本有数のアマモ場が形成されている。

故事名言=佚(いつ)を以て労を待つ


孫武(そんぶ)呉起(ごき)の教えた必勝法で、敵が遠

くからやって来るのを味方は英気を養いながら待ってい

て敵の疲れに乗じて戦うということ。佚は楽しむ、遊ぶ

の意。どちらも「近を以て遠を待ち、」佚を以て労を待

ち、飽を以て饑を待つ」とある。

日本の湖ベスト30第12位「十和田湖(青森県、秋田県)」




十和田湖(青森県、秋田県)


十和田湖(とわだこ)は、青森県十和田市と秋田県鹿角郡小坂町にまたがる湖。日本の湖沼としては、最大水深は326.8mで第3位[2]、面積では12番目[3]。東岸には、十和田湖の水が唯一流れ出る奥入瀬川があり、北東に約14kmにわたり奥入瀬渓流が延びる。約20km北には八甲田山が位置する。

観光地となっており、冬季を除き遊覧船が就航している[4]。内水ながら、国の地方港湾に指定されている港が2つある。奥入瀬渓流入り口の子ノ口(ねのくち)港と、十和田湖南岸の中山半島西側付け根にある休屋(やすみや)港である。

十和田湖は「十和田湖および奥入瀬渓流」として、文化財の特別名勝及び天然記念物に指定されている。1936年には周辺の奥入瀬渓流、八甲田火山群とともに十和田八幡平国立公園に指定されている。西湖一帯はみなとオアシスに登録していて、十和田湖観光交流センターぷらっとを代表施設とするみなとオアシス十和田湖として観光拠点ともなっている(全国唯一の湖を登録したみなとオアシスである)。

故事名言=乙夜(いつや)の覧

天子が書を読むこと。乙夜は亥の刻で21時から23時

ころの間。「もし甲夜に事を視、乙夜に書を観ずん

ば、何を以て人君たらんや」と言われているように

、昔は天子は政務が忙しくて、乙夜になってからど

ぇないと書を読むことが出来なかったという。

日本の湖ベスト30第11位「小川原湖(青森県)」




小川原湖(青森県)

小川原湖(おがわらこ)は、青森県上北郡東北町にある[1]湖。汽水湖である。日本の湖沼では11番目の面積規模を有する[2][3]。この湖には「青森県上北郡東北町大字大浦字小川原湖191番地」と住所が定められている[3]
青森県の東部に位置する。面積は青森県内最大。最深部は25mに達するが岸から200m程度までは水深2m前後の浅い部分にて形成される。海面水位が湖面水位より高くなる時期には海水が高瀬川を逆流し、湖に注ぎ込む。

小川原湖周辺には尾駮沼、鷹架沼、市柳沼、田面木沼、内沼、姉沼などの湖沼群が分布しており、これらを総称して小川原湖湖沼群と呼ぶ。

流入河川:七戸川、花切川、砂土路川、姉沼川 他
流出河川:高瀬川


故事名言=一以て之を貫く

自分の道を一本通すこと。心の中に確固とした理想があ

って考えが一つに統一されていること。論語によると、

孔子が曽子を呼んで、「参(しん=曾子)よ、吾が道は

一以てこれを貫く」と言った。すると曾子が「わかりま

した」と答えた、孔子が座を立ったあと門人たちが、そ

の意味を尋ねると、曾子が「先生の道は忠恕(ちゅうじ

ょ)、つまり真心と思いやりとにほかならないのだ」と

いったとある。また、孔子が子貢に「おまえは私の多方

面の学問を習って、それを覚えている物知りだと思うか

ね」と尋ねると、子貢が「はい、そうでは何のですか」

と言った。すると孔子は「そうではないのだ、予一以て

之を貫く」と答えたとある。、

日本の湖ベスト30第10位「浜名湖(静岡県)」



浜名湖(静岡県)

静岡県西部に位置しており、南部は遠州灘に通じている。もとは砂州によって境される淡水湖が1498年の明応地震と高潮により、砂州が決壊し外海と通じ、汽水湖となった。汽水湖には海水と淡水の栄養素が集まるため、魚などの生物が非常に豊富で魚類401種、甲殻類59種、軟体動物84種と全国一の生物が生息しているとの調査報告[要文献特定詳細情報]がある。湖の面積としては日本で10番目の大きさである[2]。形は複雑で、細江湖(引佐細江)(ほそえこ(いなさほそえ))、猪鼻湖(いのはなこ)、松見ヶ浦(まつみがうら)、庄内湖(しょうないこ)と4つの枝湾(水域)を持ち、これらの面積は湖全体の面積の4割に達する。このため、湖の周囲長は日本では3番目の長さとなる。また、汽水湖としては日本一長い。湖の北側と南側で水深は大きく異なり、北側は深く、南側は比較的浅い。

浜名湖の各水域と周辺地形の名称
近くに存在する佐鳴湖とは、1つの川(新川)を通して繋がっている。なお、河川法上は、浜名湖は二級河川都田川水系都田川として河川指定がなされており、浜名湖に注ぐ全ての河川も、水系では都田川水系として扱われる。

湖内南端付近に弁天島があり、湖内北部に面積20アールほどの松に覆われた礫島(つぶてじま)がある[3]。

潮汐の時刻の遅れ湖の南部に比べ北部では潮汐の時刻が遅れる。南の舞阪検潮所に比べ中ほどの村櫛で2時間ほど、北の奥浜名湖(猪鼻湖、細江)や舘山寺方面では3時間ほどである。

故事名言=鷸(しつ)ぽうの争い

しぎとどぶ貝の喧嘩のことで、両方が争っている時に第

三者に利益を占められ、自分たちは馬鹿をみるというこ

とのたとえ。「鷸ぽうの争いは漁夫の利からきたもの。」

日本の湖ベスト30第9位「洞爺湖(北海道)」





洞爺湖(北海道)

洞爺湖(とうやこ)は、北海道虻田郡洞爺湖町と有珠郡壮瞥町にまたがる湖。二級河川長流川水系に属する。周辺が支笏洞爺国立公園に指定されており[2]、洞爺湖有珠山ジオパークとして「日本ジオパーク」「世界ジオパーク」に登録されている[3]。また、「日本百景」「新日本旅行地100選」「美しい日本の歩きたくなるみち500選」にも選定されている[4][5]。北海道南西部に位置し、「洞爺カルデラ」内にできた湖[6]。面積は日本で9番目、カルデラ湖としては屈斜路湖、支笏湖に次いで日本で3番目の大きさである。

東西約11キロメートル、南北約9キロメートルのほぼ円形の湖で、有珠山・昭和新山・洞爺湖温泉などがあり北海道有数の観光地域となっている。湖畔の南側を北海道道2号洞爺湖登別線、北西部を北海道道578号洞爺虻田線、東側を北海道道132号洞爺公園洞爺線が通っており、湖畔を一周することができる。

中央に浮かぶ「中島」(面積 4.85平方キロメートル)の最高点トーノシケヌプリ(標高 455メートル)を中心として東北東~南東~南南西にかけてが壮瞥町、それ以外が洞爺湖町になっている。なお、中島には1960年(昭和35年)頃に2世帯6人の定住者がいたが[7]、現在は定住者はいない。

故事名言=一夫かんに當らえば萬夫も開くことなし

李白の詩の中の言葉で、ひとりが関所を守れば万人が力

を合わせて開こうとしても開けて通ることはできないと

いうこと。要害堅固のたとえ。

日本の湖ベスト30第8位「支笏湖(しこつこ)(北海道)」




支笏湖(しこつこ)(北海道)



約4.4万年前に支笏火砕流(Spfl)、支笏降下軽石(Spfa)を噴出した火山の大噴火(総噴出量139.5DRE km3)によって形成された支笏カルデラに、水が溜まったカルデラ湖である。形成当初の形状は円形であったが、カルデラの縁に恵庭岳、風不死岳が噴出したことにより、現在のようなくびれた形となった[2]。

「日本最北の不凍湖」であるが、これは温かい水が湖の深部に残存していて水面を暖めることにより湖面の水温が下がりにくいので、凍りにくくなっているためである。しかし、低温の日が続いた場合には結氷することがある。最近の全面結氷は2001年(平成13年)で、その前は1978年(昭和53年)まで遡る[3]。

また支笏湖は、透明度の高さで有名な摩周湖やバイカル湖に匹敵する透明度を有している。環境省の湖沼水質調査では何度も日本一に認定されている[4]。湖の北西には、北海道三大秘湖の一つであるオコタンペ湖がある[5]。

故事名言=一飯の徳も必ず償い睚眦(がいさい)の怨みも必ず報ゆ

史記にある言葉で、一度飯をたべさせてもらったもけっ

して忘れずに恩返しをし、、ちょっと睨まれたくらいの

怨みでも必ず仕返しをするということ。今で言えば、や

くざの仁義にそっくりである。睚はにらむ、眦はまなじ

りで、睚眦はにくらしそうに人を見るめつきのことをい

う。

日本の湖ベスト30第7位「宍道湖(島根県)」



宍道湖(島根県)


宍道湖(しんじこ)は、島根県松江市と出雲市にまたがる湖[1]。一級水系の斐伊川の一部である[2]。
湖沼水質保全特別措置法指定湖沼。日本百景。主に大橋川・中海・境水道を介して日本海と接続し、淡水湖ではなく汽水湖となっている(平均塩分濃度は海水の約1/10である[2])。河川整備計画等では宍道湖合流点より上流側の区間を斐伊川本川と称する[3]。斐伊川本川下流部から境水道まではほぼ水位差がなく潮位も影響を受けている[2]。

故事名言=一波(いっぱ)わずかに動いて萬波随(したが)う

一つの波がちょっと動いただけで全体に波が広がるとい

うことで、、一つの出来事のためにその影響がそこらじ

ゅうに及ぶ事。また一つの事件に続いて、いろいろな事

件が起こることをいう。

日本の湖ベスト30第6位「屈斜路湖(北海道)」



屈斜路湖(北海道)


屈斜路湖(くっしゃろこ)は北海道東部、弟子屈町にある自然湖である。日本最大のカルデラ湖で[2]、全面結氷する淡水湖としても日本最大の面積を持つ[3]。1934年(昭和9年)、全域が阿寒国立公園に指定された。アイヌ語で喉口、転じて沼の水が流れ出る口を意味する「クッチャラ[4]」に由来し、この湖の「クッチャラ」近くにあったアイヌの集落(コタン)「クッチャロ」に和人が字を当てたとされる[5]。

故事名言=一騎当千(いっきとうせん)

韓愈(かんゆ)のB雲霄の中に出てくる言葉で、一筋の

髭の毛で千鈞(一鈞は三十斤もの重いものを引っ張ると

いうこと。非常に危険な状態のたとえ。

日本の湖ベスト30第5位「中海(島根県)」



中海(島根県)

中海(なかうみ、なかのうみ)は、島根県松江市・安来市と鳥取県境港市・米子市にまたがる湖[1]。日本海に開いた湾の入り口が、砂州によって塞がれてできた湖(潟湖)で、東は境水道を通じて日本海(美保湾)と、西は大橋川を通じて宍道湖と繋がる、一級水系斐伊川の本流の一部である[2]。宍道湖と中海は日本では数少ない連結汽水湖となっている[3]。

湖沼水質保全特別措置法指定湖沼。「ちゅうかい」とも呼称されており[4][5]、地元企業にはこの呼称を採用している企業もある(代表例:ケーブルテレビ局の中海テレビ放送)。また、米子市では錦海(きんかい)と呼ぶこともある。

故事名言=一敗地に塗(まみ)る

史記にある言葉で、再び起つことが出来ないほど、とこ

とんまで打ち敗かされることをいう。

日本の湖ベスト30(サロマ湖)




第三位サロマ湖(北海道)

表記については、佐呂間湖、猿澗湖などもあるが、現在ではカタカナ表記が一般的である。面積は約152km2で、北海道内で最も大きな湖であり、琵琶湖、霞ヶ浦に次いで日本で3番目に大きく(日本の湖沼の面積順の一覧参照)、汽水湖では日本最大である。

湖名の由来は、アイヌ語の「サㇽ・オマ・ペッ」(ヨシが生える川)より。これは本来、流入河川の一つの佐呂間別川を指した地名であり、現在のサロマ湖の方はただトー(湖)と呼ばれた。

故事名言=一擲千金(いってきせんきん)

一度に惜しげもなく大金を使うこと。

日本の湖ベツト30「霞ケ浦」




霞ケ浦

霞ヶ浦(かすみがうら)は茨城県南東部に広がる、琵琶湖についで日本で二番目に大きい湖。湖沼水質保全特別措置法指定湖沼。「霞ケ浦」(大文字のケ)と表記することもある。西浦・北浦・外浪逆浦(そとなさかうら)・北利根川・鰐川・常陸川の各水域の総体であり、一部水域は千葉県北東部にも跨がる[1]。河川法ではこの範囲を「常陸利根川」という利根川の支川としている。

故事名言=一丁字(いっていじ)を識(し)らず

唐書にある言葉で、一字も知らないということ。全然字

を知らないあきめくらのことを言う。一丁字は一箇の字

ということで、丁の自はもとは个という字であったのを

誤写して丁と書くようになったという。

日本の湖広さベスト30



第一位琵琶湖

琵琶湖(びわこ)は、滋賀県にある日本最大の面積と貯水量を持つ湖。一級水系「淀川水系」に属する一級河川である。国土交通大臣から委託を受けて滋賀県知事が管理を担う。湖沼水質保全特別措置法指定湖沼で、ラムサール条約登録湿地でもある。

古くは淡海・淡海の海・水海・近江の海・細波・鳰の海などとも呼ばれ、「びわ湖」「びわこ」と表記されることもあるほか、「Mother Lake」の愛称や「近畿の水瓶」の別称で呼ばれることもある。

約440万年前に形成された古代湖であり、40-100万年ほど前に現在の位置に移動してきた。内湖ないこを含む多様な地形や多数の固有種を含む豊かな生態系をもっているが、近現代の開発により失われたり減少したりした地形や種もある。古くから近畿地方の水運・水利・漁撈における役割を担い、近江八景などをとおして景勝地としても知られ、作品の題材となることも多いほか、環境保全活動も盛んにおこなわれている。

故事名言=一朝のいきどおりに其の身を忘る

一時の怒りのために前後のことも忘れて極端なことをし

でかし、自分の身を滅ぼし親や兄弟に迷惑を及ぼすこと

。論語によると、孔子の弟子のハンチが「徳を崇(たか)

くし匵(とく)をおさめ惑いを弁ずる」という古語の意

味を教えて下さいと言うと、孔子が「それはいい質問だ

、まず仕事に努めて利益をとるのはあとにする、つまり

徳を充実するということが徳を崇くするということでは

ないかな。自分の悪いことを責めて他人の悪いことを責

めない。つmり隠れた悪いことを除くということがとく

をおさめるということということではないかな」といい

「一朝のいきどおりに其の身を忘れて以て其の親に及ぼ

すは惑いに非ずや」と言った。

日本の世界遺産第22位「百舌鳥・古市古墳群(大阪府)」



百舌鳥・古市古墳群(大阪府)

5世紀、中国南朝の宋に倭王が5代にわたって使節を派遣してきたことが宋の歴史書『宋書』に記されています。その倭王に比定される天皇の巨大古墳を含む49基の古墳群が、令和になって初めて、国内23件目の世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」として登録されました。

古墳群は土を盛り上げた墳丘をもつ墳墓が日本列島で盛んに造られた「古墳時代」の代表的な遺跡で、古代ヤマト王権の形成期である4世紀後半から6世紀前半の築造と推定されます。大阪府南部の百舌鳥地域(堺市)と古市地域(羽曳野市、藤井寺市)にあり、なかでも墳丘の長さが486m、世界最大級の墳墓とも称される「仁徳天皇陵古墳」(大山古墳、堺市)は、上から見ると鍵穴の形をした日本最大の前方後円墳です。さらに425mの日本第2位の規模の前方後円墳「応神天皇陵古墳」(誉田御廟山古墳、羽曳野市)や、王に仕えた人々の墳墓とされる小さな円墳や方墳など多彩な古墳が密集。仁徳天皇陵古墳は、当時の工法で築造に15年以上の歳月がかかったといわれ、莫大な労力を費やした国家の一大事業だったと思われます。

5世紀は朝鮮半島で高句麗・百済・新羅が対峙していた時代、倭も巨大古墳の築造によって王権を強固にし、東アジアの国際社会へ乗り出していったのではないでしょうか。宮内庁が管理する天皇陵古墳には立ち入れませんが、周辺からその壮大さの一端にふれることはできます。日本の黎明期に思いを馳せる歴史散歩はいかがでしょう。

故事名言=一朝(いっちょう)一夕の故(こ)に非ず

易経にある言葉で、きのうや今日で今日でできたわけの

もでなく、長い間かかって段々に出来上がったものであ

るおちうこと。悪い慣わしは出来やすいとは言っても、

一朝一夕に出来たものではなく、たいていは長い年月か

かってできたものである。まして善いことともなるとな

おさら大変である。少し大げさだが「ローマは一日にし

て成らず」である。

日本の世界遺産第22位「石見銀山遺跡とその文化的景観(島根県)」




石見銀山遺跡とその文化的景観(島根県)

録延期の勧告を覆して2007年に世界遺産登録。逆転登録の決め手となったのは、その考古学的価値もさることながら、石見銀山の環境に配慮した鉱山の経営にありました。坑道を掘り進めていく採掘法を採用して周辺環境の保全を図り、銀の精錬に使う木材を植林で得ていた自然共生型の鉱山であったことが評価され、「産業遺産」としてはアジア初の登録となったのです。

石見銀山は、戦国時代に採掘が始まった日本最大の鉱山遺跡。大内氏と尼子氏、毛利氏の間で激しい争奪戦が繰り広げられ、豊臣秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも充てられたことはよく知られています。江戸時代には幕府直轄領となり、その財源を支えましたが、慶長〜寛永期をピークに産銀量は次第に減少。明治以後は民間企業による梃入れもむなしく、大正12年(1923)ついに600年の歴史に幕が引かれました。

大航海時代、世界に流通していた銀の約3分の1が日本産だったといわれ、そのほとんどを石見の銀が占めていました。それというのも、灰吹法という鉛を使った精錬技術をいち早く導入することにより、良質の銀を大量に生産できるようになったため。ヨーロッパ諸国における石見銀山の重要性は、当時の航海地図に大きく扱われていることからも明らかで、東西の経済・文化交流に果たした役割は計り知れません。

銀山柵内と呼ばれる鉱山跡を中核に、製錬所跡、山城跡、鉱山労働者の住居跡、銀や物資を運んだ街道及び銀の積出港など、見どころは広範囲。龍源寺間歩(まぶ)や代官所跡など銀山ならではの史跡めぐりはもとより、美しい自然を満喫できるトレッキングツアーもおすすめです。

故事名言=一張一弛(いつちょういっし)

弦を強く張ったり緩めたりするということで、いつも張

り放しではなく、時には働かせら時には休ませることが

大切だということ。礼記に「一張一弛は、文武の道也」

とある。

痔本の世界遺産第21位「国立西洋美術館本館(東京都」




国立西洋美術館本館(東京都)

2016年7月、20世紀を代表する近代建築の巨匠ル・コルビュジエが設計した、7カ国17の作品が世界遺産に登録されました。その中に日本が推薦した東京・上野公園の国立西洋美術館本館が含まれ、にわかにアートとしての美術館建築に関心が集まっています。

ル・コルビュジエは1887年スイスに生まれ、地元で建築家としてスタートを切った後、フランスのパリに拠点を移し、鉄筋コンクリートによるフレーム構造の「ドミノ」や、人体に合わせた「モデュロール」という独自の寸法体系を考案し、新たな建築の可能性を追求しました。さらにピロティ、自由な平面、水平連続窓などからなる5つの要点(「近代建築の五原則」)を提案。フランスのブローニュ・ビヤンクールに建てられたクック邸で実現し、同じくフランスのサヴォワ邸で完成させました。またインドのチャンディーガルでは、彼が数多く立案した都市計画の一端がうかがえます。晩年は宗教建築も手がけ、フランス・ロンシャンの礼拝堂はその最高傑作と言われています。

国立西洋美術館本館は「無限成長美術館」構想に基づきル・コルビュジエが基本設計を行い、彼に師事した3人の日本人建築家により1959年に完成を見ました。展示空間がらせん状に配置され、収蔵作品が増えても外側に増築して無限に成長できるという、ル・コルビュジエの基本理念がよく表現されていて、展示作品と合わせじっくりと鑑賞したい日本で唯一のル・コルビュジエの作品です。

故事名言=一籌(いっちゅう)を輸(ゆ)す

ちょっとばかり劣るということ。籌は勝ち負けを争うと

きの数取の道具。「輸す」は負けること。

日本の世界遺産第20位「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業(岩手県、静岡県、山口県、福岡県、熊本県、佐賀県、長崎県、鹿児島県)」





明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業(岩手県、静岡県、山口県、福岡県、熊本県、佐賀県、長崎県、鹿児島県)


明治日本の産業革命遺産(めいじにほんのさんぎょうかくめいいさん)は、

九州、山口を中心に進められた日本の近代化は、西洋先進諸国からの積極的な技術導入によって進められ、それらの国との文化の交流がうかがわれること
鎖国状態にあった日本において、非西洋地域で初めて、約50年間という短期間で飛躍的な経済的発展を成し遂げた産業遺産群は、その歴史上の重要な段階を物語る優れた科学技術の集合体であること
などが評価され、2015年、文化遺産に登録された。

構成資産は、岩手県から鹿児島県にまたがる次の8エリアに点在する幕末の1850年代から明治末期の1910年までの23資産(*印は非公開)。

登録地域の面積は、構成資産 306.66ヘクタール、それを保護する緩衝地帯 2,408.33ヘクタール。



故事名言=一箪(いったん)の食(し)、一瓢(いちぴょう)の飲(いん)

孔子のことばで、清食な生活を楽しむことのたとえ。孔

子には弟子が三千人いて、そのうち高弟が七十七も人い

たというが、孔子が最も信頼していたのが顔回(がんか

い)であった。顔回は毎日。竹で編んだ籠に盛った一盛

のご飯と、瓢箪の一杯の水だけという粗末な食事をして、

しかも、路地裏に住んでいた。普通の人間なら不安や焦

りにとても堪えられないが。顔回は少しも気にせず、楽

しそうに道にいそしみ。貧しさに 心を動かすことがな

かった。世の中の名利や欲望にとらわれず、平然として

道を求めるその姿を見て。孔子は「賢なるかや回や、一

箪(いったん)の食(し)、一瓢(いちぴょう)の飲、

陋巷(ろうこう)に在り、ひとはその憂いに堪えず、回

やその楽しみを改めず、賢なるかな回や」

とほめたたえた。

日本の世界遺産第17位「富岡製糸場と絹産業遺産群(群馬県)」



富岡製糸場と絹産業遺産群(群馬県)


「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と流行り歌にも歌われた明治初期、上野(現在の群馬県)富岡の地で日本初の模範器械製糸場の建設が始まりました。富岡製糸場は、当時の主要な輸出品であった生糸の品質向上を目的に、また将来の産業発展の礎となるよう、すべて国内資本により政府によって建設されました。富岡の地が選ばれた理由は、工場建設に不可欠な「広い土地」、生糸の原料となる「繭」、製糸に必要な「水」を確保できた点が挙げられます。また燃料となる石炭が近隣で採れ、外国人の指導による工場建設に対し、地元の人たちの同意が得られたことも背景にあります。広さ53,738㎡の敷地内には、明治5年の操業当初のままの貴重な建築物が、ほぼ完全な形で残っており、2014年6月世界文化遺産に登録されました。

入口正面に見えるのは、繭の貯蔵のために建てられた東繭倉庫です。「木骨レンガ造」という和洋折衷の建築様式で、フランス人の設計により、日本人の大工が建てました。10万個も使用されているレンガは、瓦職人が試行錯誤して作った国産。屋号が刻まれた一片一片のレンガに職人の誇りが感じられます。富岡製糸場の心臓部ともいえる繰糸場は、内部に柱を1本も用いない「トラス構造」を採用。これにより、広い空間を確保することができたため、大きな機械の導入が可能になり、生糸の大量生産に成功しました。また、採光のためのガラス窓を高い位置に設置し、明かりを確保するなど、建物には様々な工夫が見られます。

富岡製糸場で生産された生糸は、世界に認められ、ヨーロッパ市場の安定にも貢献しました。海外の進んだ技術を取り入れ、そこに日本独自の工夫を組み合わせ、高品質の製品を作り上げる「ものづくりニッポン」の原点は、ここ富岡製糸場にあったのではないでしょうか。


故事名言=一饋(いっき)に十起(じっき)す

一度食事をする間に十度も立つということで、仕事に熱

心なことをいう。淮南子によると、夏(か)の禹(う)

王は政治に非常に熱心で政治のことを聴くために、食事

中に十度も立ったり、入浴中洗いかけた髪を手にしてた

つことが三度に及んだという。

日本の世界遺産第16位「紀伊山地の霊場と参詣道(三重県、奈良県、和歌山県)」




紀伊山地の霊場と参詣道(三重県、奈良県、和歌山県)

太平洋に突き出た紀伊半島に位置し、奈良・三重・和歌山の三県にまたがる山岳地帯。1,000m~2,000m級の山々が連なり、鬱蒼とした森林に覆われたこの地は、古代から自然信仰の対象として、仏教が伝来して以降は過酷な山岳修行の場となりました。世界遺産は修験道の拠点「吉野・大峯」、熊野信仰の中心「熊野三山」、真言密教の根本道場「高野山」の3つの山岳霊場と、そこに至る参詣道からなり、総面積約495ha、道の総延長は約308kmにも及びます。こうした祈りの道が世界遺産に登録されたのは、スペインとフランスを結ぶサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼道に次いで2例目となりました。

ひときわ霊験あらたかなのは、熊野本宮大社、熊野速玉神社、熊野那智大社からなる神仏習合の熊野三山。平安中期~鎌倉時代に盛んに行われた法皇上皇の熊野御幸によって全国的にその名を知られるようになり、11世紀半ばに末法思想が広まると紀伊山地を浄土と見立てる浄土信仰が庶民の間で大ブームに。険しい山道が続くにも関わらず、江戸時代には「蟻の熊野詣」と謳われるほどの賑わいを見せたのは、熊野が男女貴賤などの隔てなく受け入れたため。

熊野へのアプローチは、登録遺産だけでも中辺路・大辺路・小辺路・伊勢路・大峯奧駈道があり、これに紀伊路を加えて熊野古道といいます。最も多くの参詣者が通ったのは、山中に分け入る中辺路で、現在も格好のハイキングルート。道中にある熊野権現の分身を祀った九十九王子で何度か休憩をとりながら、約40kmの道程を1泊2日で踏破してみてはいかがでしょう。


故事名言=一竿(いつかん)の風月

陸游(りくゆう)の詩の中の言葉で、一本の釣り竿に、

世の中のことを忘れ、静かに魚を釣りながら風流にひ

たりきるということ。釣りに行く時などに洒落ていう。

日本の世界遺産第16位「日光の社寺(栃木県)」




日光の社寺(栃木県)

日光山内にある東照宮・二荒山神社・輪王寺の103棟(国宝9棟、重文94棟)の建造物群と、周辺の自然環境が一体となった文化的景観は、日本独特の神道思想を現す宗教的空間であるとともに、将軍家を頂点とする政治体制において極めて重要な役割を果たしました。徳川初代将軍家康の霊廟として元和3年(1617)に創建された東照宮は、日本の代表的な神社建築様式である権現造の典型。社殿のほとんどは、寛永13年(1636)に3代将軍家光によって造営されたものです。家康を敬愛していた家光は、彫刻、漆塗、彩色、金工などの建築装飾は当時の最高水準を用い、「寛永の大造替」と呼ばれ、収支報告書『御造営帳』によれば、使った木材は14万本、総工費は現在の400億円相当、1年5カ月の工期に動員された人数は延べ454万人以上。圧巻は500を超える彫刻が施された陽明門で、一日中見ていても飽きないことから「日暮らし門」の異名もあるほど。

東照宮と接して鎮座するのが、日光の氏神様として信仰を集める二荒山神社の本社。中禅寺湖畔に中宮祠、男体山山頂に奥宮があり、ご神域は3,400haにもおよびます。本殿は2代将軍秀忠寄進による安土桃山様式の優美な八棟造で、日光山内に現存する最古の建造物です。

天台宗の名刹輪王寺の見どころは、宝物殿と逍遙園、本尊の千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音を祀る三仏堂、そして家光の墓所である大猷院。神仏習合の東照宮に対して、こちらは純然たる仏殿造ですが、本殿・相の間・拝殿は金と黒を基調に赤の彩色を施した豪華な造り。皇嘉門など6つの門は精緻な彫刻で飾られ、控えめな中にも気品と重厚感に満ち、門をくぐるたびにまるで天上界へと導かれているような心地がします。

故事名言=一家の富貴は千家の怨(うら)み

金持ちで身分の高い家はほかの沢山の家からねたまれ、

怨まれるということ。人は他人の幸福をそねむもので

あるから、ひとり抜擢でもされようものなら、皆から

恨まれる。